ジュンコ田中のカサンドラ脱却ストーリー第1章~第3章

第1章 今、振り返るとそれは地獄のような日々だった。

「今、振り返るとそれは地獄のような日々だった。」と、ジュンコさんはご自身がカサンドラ症候群に陥っていた時期を振り返り、こんな風に語られました。

 

 

「夫が発達障害である」と気づくには、夫本人が自身の「生き辛さ」から自身に現れる体調不良、精神的な症状が発病し診断される場合もあるが、主にパートナーである妻にその症状が現れることで「ご主人が発達障害ではないか?」とお医者さんやカウンセラーからのアドバイスによって、初めて気づくというパターンが多いようです。

 

そもそも発達障害という心に関する脳の機能の問題があると認識されたのも、ここ20年ほどで、まだまだ社会的にも「精神障害」「性格の問題」などと誤解が多い理解不足の領域です。

 

このパートナーの発達障害からの問題だと気づいていない時期原因がわからないが故に、発達障害の夫(パートナー)とのコミュニケーション、不可解な態度から心に傷を負い、相手とうまく関係を気づけないことを自分に原因があるのかと過度に責めたり、またその自分の苦しみが、まわりからは理解されないという、あらゆる「孤独と心の傷、そして罪悪感」がカサンドラ症候群を作り出し、追い詰めていく。

 

そしてついに精神的に疲弊し、心が機能を失い、身体的症状として現われざるを得ない状態となって「何かのきっかけ」で初めて「この原因は夫(パートナー)の発達障害なのだ」と気づく。本人も、夫(パートナー)も世間も理解がなく、知らず知らずに蝕まれていく、地獄の日々。

 

ジュンコさん自身も例外ではなく、家族の発達障害による自身のカサンドラ症候群を認識するのは、2度の大きな身体の病を経験した後でした。

 

第2章 長女の発達障害とイジメ、てんかん性鬱の発病で1年半の車椅子生活


長女・次女と一緒に。

 

ー発達障害(ASD/ADHD)の方の特徴として、一般的な「共感力」と「想像力」と言われる部分が苦手である、ということがあげられるようですね。

お嬢さん(長女)は、発達外来を受診するのに予約から3年も待たされ中学1年生でやっと順番が来て、ADHD&アスペルガースペクトラムと診断されたとのことですが、それまでもそれからも、学校でイジメにもあわれていたと伺いました。

 

そうですね、長女は幼稚園に入った頃からすでに、まわりの女の子とは違い風変わりだったので、本人は気付いていませんがクラスメイトから嫌がらせやイジメを受けていました。
また、私は周りの親や実の親から、私の育て方のせいだと指摘されたり批判されていました。
私自身も、診断されるまでは、自分の育て方のせいだと思っていました。

 

 

初めてのお子さんの子育て、そしてまだ世間に認知されていない発達障害。まわりや、ご自身の無知と誤解から間違った子育てをしているとの中傷を受けていたんですね。そんな時に相談したり支えになって欲しいご主人も、後から判明したようですが、一般的な「共感力」「想像力」という「心」の機能を苦手とする発達障害だったとのことですね。


モンテッソーリで長女を育てていた頃

 

発達障害であるご主人としては自身にその存在の理解が難しので「心の問題は意味を持たない」というスタンスが故に、ジュンコさんが「一般的な夫として親としての共感やサーポートが欲しい」というスタンスとの間に、認識のずれが起きたという。

 

これらのことが重なってジュンコさんの心の状態に「限界」が訪れ、それが身体に現れたということなんですね。。

 

 

そうですね。ある日、長女と一緒に車で大学病院での療育トレーニングから帰宅し自宅の車庫にいれようとしたときに、ハンドルが回せなくなってしまったんです。

 

少し前から指に痛みを感じてリュウマチの治療もしていたので、そのせいだろうと思っていたのですが…
その日はなんとか自宅の部屋の椅子に腰かけたのですが、そのふとした瞬間、そのまま、足のももから下、肘から下の手足が動かなくなってしまったんです。

 

その日から1年半、要介護レベル4の状態で車椅子生活が始まりました。病状は長い時間をかけた様々な検査の結果「てんかん性鬱」と診断されました。

 

ー鬱、精神からくる手足の麻痺状態なんですね・・・
心の機能を失うことは、こんなにも身体に危険を及ぼすんですね。
ある日、突然、手足が動かなくなるというのは、想像を超える相当なショックだったと思います。

 

そして、ジュンコさんの急変で、その時のご主人のサポートが必要だったと思いますが、どんなものでしたか?

ーそれが、車椅子に座っている私にニコニコしてプリンや、チーズを持ってきて、まるでお地蔵さんにお供えしているようでしたよ。。(笑)

夫が休みの時には車椅子の私と一緒にスーパーに行きたがるんですが、でもそれは彼の思うところのサポートで、私はこんな姿を周りに見られたくないのに、ニコニコしながら連れて出していくんですよ。
スーパーに行くことが夫の好きなことなんです。だからスーパーから帰って「それで僕のご飯は?」ですからね…

 

ーなるほど、「共感力」と「想像力」に欠けていることがよくわかりますね。

 

はい。そのニコニコしながらというのも、恐らく病院で「病気の人には笑顔でいてあげるのがいいんだ」と、どこかで学んだみたいなんですよね。だから、彼にしたら、私を思ってサポートしてくれているんですよね。。。

これらは後からアスペルガーの方の「こころの機能の仕方」が理解できたからわかることなんですけどね。

 

しかし、それとわかるまでは、自身の身動きが取れない身体で2人のお子さんを抱え、そこにいる夫も、まるで子供のよう。精神的に頼れる存在がいないという「孤独」がジュンコさんを襲い続けます。

第3章 奇跡的に手足の麻痺を救ったのは「心に秘められた力」だった

 

ージュンコさんのブログにも書かれていますが、車椅子と自宅の介護用のベットで寝たきり生活の中、鬱鬱とした日々だったとのこと。その時に、ある「内観」=「イメージ」をしたことから、全く動かなかった身体に変化が生じたと伺いました。

 

 

はい。
ちょうど、私の誕生日が近くて、発達障害ではない小学生の次女が天真爛漫に「お母さん、お誕生日に何が欲しい?」って聞いてきたんですよね。

 

私は心の中ではこっそり「命もいらない」と思っていたので…
こんな私がいない方がこの子のためにもなると。。。

 

「欲しいものもない」「したいこともない」・・
でも、この娘に応えないとと・・
困ったなと思いましたね。


1才の長女と

 

そこで数日、ベッドからぼんやりと天井を見つめながら、それでも、「何かないか?」と考えたんです。

 

しばらく頭の中で時間をさかのぼり・・ふと記憶の中に埋もれてしまっていた中学生だった頃の自分の夢を思い出したんです。

 

「ウインブルドンに行きたい」と言っていた私の夢。

 

私はテニスが大好きで、意外と体育会系だったんですよ^^

 

あれから何十年も経った後、寝たきりのベッドで、
「私はウインブルドンに行きたかったんだ!」と思い出したんです。

 

「テニスが大好きだった」
どんな炎天下でも、冬の凍てつくような日でも、コートにいて走り回っていた、その時の自分の感覚をありありと思い出したのです。

 

ジリジリする日差し。
流れる汗や乾いた喉の感覚。
ポーーン ポーーンという軟式庭球ボールの打音。
みんなの「ナイスで〜す」や
「あと5分で〜す」のローテーションの掛け声。
サーキットトレーニングの体の疲れ。


手足麻痺の回復後のテニス姿

 

この過去の五感の記憶を鮮明に思い出し、それが今の動かない私自身の体に、まるで今起こっているかのように、ありありと感じられた瞬間、
血液が手まで流れる感覚が戻ってきたんです!

 

 

ー凄いですね。自分の精神的イメージ、心が身体に影響を与えた瞬間ですね。
そして、ジュンコさんのお話された心理学の基礎「見る」「聞こえる」「感じる」という五感が潜在意識の力を使って、物理的な現実に影響を与える理論をまさしく体現されたわけですね。

 

 

そうなんです、実際にNLPを学んだ時に、「これ、私が経験したことだ」と後からわかりました(笑)

その後、誕生日にスポーツショップのアルペンへ連れて行ってもらい、テニスで着れるようにと、ジャージを買ってもらいました。

 

 

不思議なものですが、ジャージを着て「もう一度テニスをしたい」と改めて思ったときに、麻痺してしまっている身体に対して、初めて絶望を感じたんです。

 

 

「動けなくて本当に悔しい」と、ボロボロ涙を流して。

 

 

ーなるほど、鬱で「何も感じない」「感じられない」状態だったんですね。絶望も、そして、希望さえも…

 

皮肉にも、このご自身の身体に対して「絶望」を感じ始めたというのが、最初の回復へのステップだったのですね。

 

苦しさ、悲しみ、怒りはあまり感じたくない感情ですが、「感じられる」ということは、心が正常であるという証拠なんですね。

 

その後「この感じる心」を取り戻したジュンコさんは、少しずつ、回復され、3年の念月をかけ本当にテニスをされるまでに見事に克服されました。


回復後、ベテランJOP50代シングルス全国ランキング最高100位にまで!

 

ジュンコ田中のカサンドラ脱却ストーリー第4章~第5章

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